精神の記述に、因果ではなく論理が適する理由
大乗仏教の「空即是色、色即是空」とは、「空とはすなわち色であり、色とはすなわち空である」と言っているわけだが、空とは表れとしての色の ”前” に存在するものであるから、色は空ではないのだが、”前” という言葉に非常に違和感を感じるのはなぜか?
前とか後とか、時間的関係を示唆するからであろうか?
時間の捉え方には、
・過去から未来に時間が直線的に進むリニアなもの、
・過去が未来になり、未来が過去になるような回帰的なリカーシブなもの
等々、色々あるが、いずれにしても、そこに言語を用いて概念を2つに区分け、クラス(優劣)化することによる二元論の制約が発生してる。
つまり何が言いたいのかというと、主観と客観の交わる純粋意識の領域を離れた認識になっている。
純粋意識の領域、すなわち私の理解では、
・精神的主観的には健在意識の中心
・物質的客観的にはブラックホールの中心
これらのみが、二元論の各対立する論が
「水と油」
「S極とN極」
のように、反発することない、交わる、というよりむしろ、その前の対称性が破れる前のそのような領域であると理解しているのである。
ところで、因果関係を「~ならば、~である」は時間概念が含まれるが、論理関係を表す「~ならば、~である」は時間概念を含まない。
このことは、論理がい因果関係のモデルとして不完全なことを示している、というのは、グレゴリー・ベイトソンの言うところであるが、
因果関係の理屈、つまり時間を含んだ概念において、空が色に先行するものと考えることをは、そこに時間の概念を前提している。
しかし、空とは、時間という概念を超えた概念を指し示すのであって、空が色に先行することを前提にしてしまえば、時間概念の存在を公理とした体系の中に、時間概念を超越した概念があらわれてしまうのではなかろうか。
つまり、論理とは、非物質的な概念なのである。
それは概念として時間と空間を超越した概念であり、したがって、純粋精神世界を記述するにあたって、論理は適している、と言えるのだ。
ハンドルしかない車を運転すること
私という意識が何をやりたいと思っても、それは無意識のニーズに見合っていなければならない。私の理解では、意識の役割の一部とは、無意識に対しての提案、そのお伺いを立てる、というものだ。
これは、アクセルペダルもブレーキペダルもない運転席のようなもので、我々にできることは「ハンドルを切ること」だけであり、どの方向にハンドルを切ったら車が加速し、どの方向にハンドルを切ったら車が減速するのか、それはハンドルを切ることで車のほうににお伺いを立てる他ないのである。
単位がズレてると、物事は解決しない。
予備学習(予習)による "生産的失敗" により、本学習の定着率が劇的に上昇して「敵を倒すのに必要な知識」と「今の自分の知識」のギャップが把握される
本学習の目的は、「正しいプロセス」ではなく「正しいプロセスと自分のプロセス」との "ギャップの正体" を見極めることで、その探究行為を復習と呼ぶ。
この話の例として、先ほど受験数学のノウハウ抜きで、この整数問題を自力で解こうと私は挑戦した。
■問題 整数問題の解法(2006年京大前期理系)
2以上の自然数nに対し、nとn^2+2がともに素数となるのはn=3の場合に限ることを示せ
私の回答の方針は、
・P(n)=[n^2+2]とした時
nが5以上の素数の時、P(n)は3で割り切れることに数え上げて気づいたので、[3 x ( )] の式変形を目指し、任意の素数を
Q(k)=[2k+1](kはQ(k)が素数を取りうるような自然数)
として
P(n)に代入したが[3 x ( )] の形最終的に式変形できず撃沈した。
これが生産的失敗にあたるものであるが、本学習の回答は、全ての自然数を
3k 3k+1 3k+2
に分類し、最終的に
[3 x ( )]
の式変形を導いた
しかし、なぜ
[n=2k+1]
と定義すると
[n^2+1]において[3 x ( )]
の形に変形できないのか?
[2k+1]も[3k+1]も、自然数の分類の仕方の違いにすぎず、変形自体はできるはずではないか?
このような問いから ”復習”した時、これは前者と後者で論理階型(ロジカルタイプ)が異なることに気づく。つまり、当たり前の話だが、
[n=2k+1] は2進数的分類
[n=3k+1]は3進数的分類
ということだ。
そして、問題の条件式は、出題者により3進数的分類で作成されている
・3進数は[3つごとにメモリを付した事柄]
・2進数は[2つごとにメモリを付した事柄]
であるから、前者を後者で数学的に割ろうとすると、両者のメモリがピッタリ一致しなくなるだろう。
片方は[cm]の単位
片方は[inch]の単位
を使ってるようなものだ。
どちらかの単位にどちらかが合わせない限り、もしくは双方が妥協して共通の単位を用いない限り、問題条件の "自然数の範囲において" が満たされないわけである。
======補足=======
冒頭の学習プロセスの分析に関して、こちらが別の切り口から解説していて参考になった。引用元 : https://youtu.be/y5P2FEMoK64
このインフルエンサーを目の敵にして毛嫌いしている人たちが結構多い気がするが、有用な内容は、誰が発信したとしても有用であることには変わりない。
凡人は「何をいうかよりも、誰がいうか」に耳を傾けるが、賢人は「誰がいうかよりも、何を言うか」に耳を傾けるものだ、というのは誰が言った言葉というわけでもないが、そういえば哲学者のショーペンハウエルは「凡人でもたまには耳を傾けるに値するようなことを話す時がある」と言っていた。
「過去最多の不登校児」と「調教の極意」
貧困で教育格差がとか叫ばれている。
その一方で、勉強しようと思えばYoutubeに死ぬほどわかりやすく有益な動画がいくらでも転がっている。
私は、ここ一年以上、もっぱら英語学習にコミットしているのだが、英語学習マーケットの規模が大きいこともあろうが、その情報の質の高さと量の豊富さに「これで解決できない問題はないのではないか」とさえ思えてくる。
教育格差の輪郭を私なりに明瞭にすると、その問題の本質は情報リソースの不足ではなく、それを活用するインテリジェンスの不足が浮かび上がるのだが、教育格差を狭めるために情報を活用できるインテリジェンス教育とはどのように施せば効果が上がるのか?
ところで、そもそもだが、優越的地位にある層にとって、国民にはある程度以上の知性を身につけてもらっては困るのだ。サーカスのライオンの調教とは
①選択肢の存在認識させ
②選択行動により、結果の快/不快を制御できることを理解させ
ゲームルールを理解させた上で、、、、
③ "自由意志はの行使は放棄させる" (ライオンは調教師の自由意志に従う)
これが調教の極意である。
そして、人間という動物の織りなす動物的社会は基本的にこのような構造で機能しており、結局のところ教育格差、すなわち情報リソースの活用に関するインテリジェンス格差を考察する上で、「調教催眠としての教育」「自由意志を尊重した人間の教育」の2つの視座から捉えた時に
前者の事柄に関して、2023年の日本においてそれを国家単位の組織に期待することというのは、それを話題にしようと思いを抱こうとするその時点でさえすでに虚しさが漂っている。
もし「過去最小の出生児童数」と「過去最多の不登校児童の数」が同時に叫ばれるこの異常な状況が、その背景において、その国家的調教催眠の先になんの希望も見出せないことを無意識的に子供達が気づいていることを示しているなら、
仮に、この日本国を1億個の細胞が組織化された1つの生命体として見ると、不登校児童たちがその生命体のエゴ的で自己的/破壊的な誤った振る舞いにNOを突きつけている健全な精神の否定的現れだとして、そこに希望を見出すこともできるのではないだろうか。
親ガチャ信仰が孕む逆説的矛盾
頭の良し悪しだが、遺伝的要素の影響は間違いなくある。あるのだが、少なくとも実生活レベル(ロジカルタイプの下層)では、後天的学習、つまり獲得形質によるものの影響の方が大きく
その獲得形質の種類は「効果的(良質な)思考パターンの入力とそれら同士の構築」であり、昨今の情報の溢れた状況状況においてその入手は容易だ
遺伝的要因による能力限界は、上限・下限値(バイアス)に至るまで実際にパラメーターを変更しなければ分からないような潜在的な値であり、
我々はこれを実生活で行うという人生ゲームに参加させられているわけだ。
成功哲学に「諦めなければ、必ず成功する」という箴言があるが、これを正確に捉えると
"諦めない" その先に来るのが
"成功" が先か?
"限界" が先か?
ということだ。
成功は社会的な競走原理上で相対的に定まり、かつ、そのイスの数は相対的に少ないので、我々の大半は "勝ち馬の馬券" ならぬ "負け人の人券" を握らされている。
そして "社会的な競走原理" は主に実生活レベル、論理階型(ロジカルタイプ)の下位構造に依るところが大きいので、遺伝的要因よりも獲得形質さらに言えば、器質的な能力格差というよりも、ノウハウへの鋭敏性や情報格差から生じる能力格差、つまり、 "思考習慣格差" とでも呼ぼうか、これに依るのである。
結論として、俗社会的成功においては遺伝的要因よりも、すなわち後天的学習によるところが大きく、その中でも有効性を持つ獲得形質は "器" 質的能力 よりも言ってみれば "気" 質的能力 すなわち "思考習慣(考え方のパターン)" に依るところが大きい。
ということだ。(とはいえ、私は『思考は現実化する』は読んでいない)
なので、親ガチャ親ガチャなどと自分の不幸をタネに騒いでいる人間が多いが、彼らの何がおバカなのかというと、そういう人間が最も興味を抱く俗社会的成功においてこそそれを左右するのは、遺伝でも、経済でもなくその"思考習慣"であり、親ガチャ親ガチャと騒ぐ人間のそれはまさに負け犬のそれそのものなのだ。
この意味で、「格差は遺伝する」などと言われ、この "遺伝" の語句が、あたかも生物学的な器質の継承こそが、100歩譲って扶養者の経済的優位性が、俗社会的成功を左右してるように思わされるが
実際は、その "非成功者的な考え方のパターン” を子が親から20年近くかけて無意識レベルで刷り込まれるだけのことに過ぎない。
つまり、親ガチャ信奉者にとっての親ガチャ理論とは、非成功者という概念にべったりくっついた自己イメージを肯定するためキャッチーで分かりやすく有用な手段なのである。
この理解が得られたのであれば、それは同時に、「人はいつでも変わることができる」の意味も理解されなければならない。
要するに "人生が変わる" とは、思考習慣という物事の考える "考え方のパターン" が変化するということだからだ。
「この歳でもう人生なんて変わらないよ」とは「私は自分の思考パターンを変更する気がありません」と宣言してるも同然で、おバカは己がおバカだと気づいた時に初めて学習するのであるから、その意味でこのおバカは救いようがない
親ガチャ信仰の本質とは「遺伝した思考習慣への固執」なのだ。
したがって、人が "人生を変える" すなわち "思考パターンの変容" さらに言えば "おバカがおバカでなくなる" ためには、
「自分の思考パターンがおバカであることの自己理解」
と
「その変容プロセスの前提に少しでも自分のおバカ性に目を向けようとする"自発性" の存在があること」
これらが自己変容にあたっての決定的に重要なファクターなのである。
(仮にお望みの社会的成功を得たとして、その後も彼らの幸福か続くのかということは、少し本を読めばわかることなのだが、残念ながら、彼らは輝く見かけの背後にある影を見るということはしないのであろう)
多元的原子論が小乗仏教の世界観である必要性とは?
大乗仏教を基本とするチベット密教の伝道者による著書『タントラの道』を読んでいる。タントラとは金剛の意味だそうで、
①小乗仏教(出家的で利己的)
②大乗仏教(在家的で利他的)
③金剛仏教(実践的)
仏教徒の修行はこの順序で進めるべきと著者は語る。これをスポーツで喩えるなら、小乗仏教は自己練習で、大乗仏教は試合、金剛仏教が撮影禁止の非公開練習といった感じだろうか。
その中に気になる記載を見つけた。以下に引用する。
「小乗派の現実に対するアプローチでは、生まれたものは変化し死ななければならないという無常の理を大きなる神秘とみなす。しかし私たちに見えるのは、無常そのものではなく、形の中にそれが現れたものに過ぎない。そこで小乗派は空間に存在するさまざまな原子、時間に存在するそれぞれの瞬間によって宇宙を描き出す。つまりそれは原子論的多元論だ。
(中略)
私たちは永久論、虚無論、原子多元論の三つの要素がさまざまに組み合わされて、世界のほとんどすべての宗教の中に現れているのを見る。」
というものだ。
ちなみに、ここの記載の「永久論」とは、現象は本質(絶対性)をその内に含んでいるというもので、ここでいう本質とはいわゆるアートマン、魂、と思って構わない。
虚無論は、観察不可能性に対して神秘(絶対性)のラベルを貼り、それを世界の説明原理の根拠に据えるもので、老子的な「道の道とすべきは常の道にあらず」の道的な神秘的対象に絶対性を置く論だ。
以上を踏まえて、気になったのが
「上座部仏教が<無常>を公理に据える時に、その世界観が原子論的多元論になるのはなぜか?」
「そのような説明原理が必要になる理由は?」
「そもそも、なんでそれがまた “原子” なのか?」
という上記の問いに関わる点なのだが、この答えへの鍵となる記載が『仏教の思想 2 存在の分析』にあったのでこれも引用する
「それでは、自然界は、造物主によらずに、何によって形成されたのであろうか。『俱舎論』によれば、それは「サットヴァ・カルマン」によって生まれるのだという。「サットヴァ」とは、ふつう「有情」とか「衆生」とか訳されている語で、この世に生命をもって存在するもの、あらゆる生きものを意味する。「カルマン」はふつう「業」と訳されるが、行為・動作の意味である。したがって「サットヴァ・カルマン」とは生命あるものの行為、生命体の生活行動、ということになる。
常識的な順序からいえば、当然、まず自然界が先に存在していて、次に、そこに生命をもつものが発生して、その行為・動作が起こるはずのものである。にもかかわらず、ここでは、逆に生命あるものの行為・動作によって自然界が生み出されるという。とすると、自然界の成立に先立って生命あるものが存在していると考えなければならないことになるが、どうしてそのようなことが可能であるか。この問題は、一個でなく多数の自然界を考えることによって説明される。のちに述べるように、果てのないほど広大な宇宙空間の中では、この場所に「この、一つの」自然界がまだ成立していないときにも、他の場所には「他の、多くの」自然界が現に存在していると考えられる。そこで、現に他の自然界に生存している「有情(サットヴァ)」であってやがてこの自然界が成立したらそこに生まれてくるであろうものがあるはずである。そのものの「業(カルマン)」の力によって、この自然界は成立せしめられるというのである。
サットヴァ・カルマンによって自然界が創り出される。(中略)宇宙を生成するエネルギーと、一個体が、一人間が、生き行為し動作する力とは、根源的に同一であるとする考え方であると言ってもよいかもしれない。」
これらの記述から得られた私の理解によれば、これは物理学的にいえば、「物事が減少する前の」「対称性が破れる前の」「観察される前の」、相反する物事が同時に存在している状態をどのように説明づけるか、という問題意識によるもので、なぜこのような問題意識が生じるかといえば、ニュートン力学的なミドルスケールの理論だと説明できないからではなかろうか、というものである。
そこで物事が生じる、全くの初めの時点、対称性が破れる時点のスケール、微細なスケール、ミクロスケールにおける説明原理ということで、原子論というわけだ。
物理学的にはこの同時存在性の説明原理として数学的な処理を目的意図した相反する状態が確率的に同時存在しているという概念を採用したが、仏教は物理学が採用しなかった、この世界とは異なる世界に相反する状態が同時存在していて、現象する瞬間に、こちらの世界にそれが現象するという並行世界論を採用したのだと見ることができる。
前者は左脳的な理知と、後者は右脳的な情感知と親和性が高い。
つまり多元的原子論とは、ミクロスケールの対称性が破れる前の、つまり非現象状態における相反する物事の状態の同時存在性への説明原理として、並行世界的観念を据えたものと理解される。
このような理解において、永久論、虚無論、多元的原子論の3つの観念の組み合わせにより、あらゆる ”ものに対する” 宗教的観念はモデル化できる、ということが著者の言わんとしたことであろうと、というのが私の理解である。
■3つの論のまとめ
・永久論・・・現象は本質(絶対性)をその内に含む論(アートマン、神、魂)
・虚無論・・・観察不可能性に対して神秘(絶対性)のラベルを貼り、それを世界の説明原理の根拠に据える論(老子的な道)
・多元的原子論・・・ミクロスケールの対称性が破れる前の、つまり非現象状態における相反する物事の状態の同時存在性への説明原理として、並行世界的観念を据える論
因果律への懐疑と理知と情感知の相補性
A ボールを蹴った
B ボールが飛んでいった
「ボールを蹴ったこと」と「ボールが飛んでいったこと」の間には、常識的には因果関係があり「AならばB」である。
しかし、「なぜAならばBであるのか?」という”客観的”な根拠は実際にはどこにもなく、これを数学的に考えれば、その論理接続が肯定される根拠を遡ると、自明とされる公理系に辿り着く。
つまりそれは「公理で(最初に)そう決めたから」という極めて主観的なものであり、公理系の決定は理知ではなく感覚、感情という情感知によって決定される。
この意味で、理知は情感の奴隷と言えるが、だからこそ、情感に偏りが過ぎてその公理系の工場性に問題が生じた時には、理知により情感の統制を効かせること、理知と情感知の相補性が必要なのだろうと思われる。