人は表現するために生きている、だが
客体になりえない究極の主体を主体的に表現したいエゴが、最終的に八方塞がりになり、それでもそれを表現したい渇望が湧き上がるとき、それは、服従への欲求、受動的態度への主体性、サレンダー(surrender)を求め始める。
幸福とは何か?
それは究極的なる主体に服従したときに、当たり前にわかるようなものだ。
しかし我々は、我々にとっての幸福が何であるのかが分からない。
この物質世界に意識を向けるべきなにものもないこと、そして、意識を向けるべき究極的対象には能動的に意識を向けることができないこと、これらの直感的理解が達したときに、内にある幸福への渇望に気づき、その欲求に従った時、究極的主体の客体としての相応しいと感じられる意識を感じる。
聖域としての観測限界
この図は、このエッセイの因果律による意味論的な実存解体の推移を4つに区分けして図示したものである。
something-as-nothing.hatenablog.jp
・右側の客観的な領域は理知の知(理性)が支配し
・左側の主観的な領域は情感の知(感情)が支配し
ているというコンセプトに基づいている。つまり
理知は共有できる客観的なもの ⇆ 感情は共有できない主観的なもの
という、二元的対立構造が前提にある。しかし、ふと日常生活を振り返ると、「果たして感情は本当に共有できないものだろうか?」と疑問の念を抱く。
ある人の表情や仕草からその感情、悲しみや楽しみ等が確信のおけるものとして認識され、自己において同じ感情が体験される、といった経験は誰にでもあるように思う。
つまり、経験論においては「感情は伝搬する」ということが言えそうだ。
【捕捉:さらに言えば、私は、視覚的にも聴覚的にも触覚的にも知覚関係を持っていない他者との関係性において、ある入力情報への反応に関して彼の情感を確信的に共感してしまったことがある。これは、知覚ではなく、過去の知覚の総体から構造(パターン)化されたモデルをアナロジーとして私は自己同一化し、そこに確信における情感の同期が起きたと考えられる】
つまり、情感と視覚/聴覚/触覚など知覚器官により得られる情報との間に間接的な因果関係が認められ、その結果の総体より統計学的にパターンを抽出すれば、その将来的な在り様、つまり「次にどんな情感が起こりうるか?」という将来的な反応は確率的に収束されうる。
この意味で、先に図示した、AIによる因果律による意味論的な実存解体のプロセスのアイデアと相違するものではないように思われる。
したがって、
理知は共有できる客観的なもの ⇆ 感情は共有できない主観的なもの
という当初の二元対立構想は成立せず、感情における意味論的実在性は、究極的、最終的に因果律によって客観的に解体されるという論理が成立せざる得ない。
ところで、この論理は「仮に全てが観察されうるなら」という前提に基づいている。
つまり、逆説的には「決して他者に観察され得ないもの」つまり「自己にしか分かりえないもの」ここに、究極的かつ最終的な聖域としての可能性が残される。
先のエッセイで私はそれを「私が私を見るときの私の領域」と定義した。
その領域のみが、主観と客観が交わり、かつ決して交わらない、我々が唯一絶対的に信頼できる領域である。
永遠に存在し続ける我々の観測限界が、その聖域を絶対的に保守する。
ゆえに、他者と「価値」を共有できるような「何か」は究極的かつ最終的な聖域とは言えず、一方で、そこへ至った時に初めて、それは全ての他者に共有されうる「意味」 になるのではないか。しかし、それは決して共有されない。
死の扉を開けるのではなく、死が彼の扉を開けるような死
「汝自身を知ること」と「死語についてどう捉えるか」は密接に連関している。
特異点の先にあるブラックホールの中心と、私が私を見るときの私の死のアナロジーにおいて、それらを”客観性”において存在が肯定できなくなる時、つまり、客観的な消滅と死を迎えた時、その後の様態の有り様を主観的にどう捉えるかについて、そこには個々の自由度があり、その信仰が確信となるには、仮にそれが伝統的なものであろうとも、最終的には自身の手で掴み取る必要があると私は信じている。その確信により、死は精神的に乗り越えられる。
現時点で私の確信できるその道のりは、汝自身の存在性に関して、上述したようにそれ
が客観的に滅し、死するところまでは、客観性と主観性の両者を踏まえた上で、その絶対性は保持されるということであり、少なくともその瞬間までは「豊かな意味たちに囲まれて死ぬ」という信仰による希望が私にはり、従って今すべきことは、それに精一杯取り組むべく、その過程において遭遇する目の前の扉1つ1つへ真摯に対峙すること、つまり、自身の手でノブを回し、その扉を開けることである。いくつ目の扉になるかはわからないが、その先に死に値する希望の確信があると私は信じている。
なぜなら、目の前の扉を開かずして次の扉を開く機会は訪れず、開くべき扉を開けなかった者にとって訪れる死というのは、彼が死の扉を開けるのではなく、死が彼の扉を開けるようなものになるであろうからだ。
AIと藤井聡太
過去に、農業革命、産業革命が起こり、2023年、Chat-gptにより、知業革命が起こる。人間なければできないと思われていた知的作業が続々とAIに仕事を奪われていく。
一流の技術を持つトップ層のみが生き残り、中間層は職を失う、というのがもっぱらの世論だ。
中間層が職を失うのは想像に難くないが、一方で、一流の技術を持つトップ層は、本当に生き残るのだろうか?
例えば、将棋の分野で言えば、すでにAIの棋力は一流プロを凌いでおり、だからこそ藤井プロはAIを相手に研究対局をし、トップの座に君臨している。
純粋な論理力が問われる分野ではもう、すでに人間は職を奪われているのだ。
しかし、将棋業界はまだ人間の棋士の手によってまだ存続してる。なぜか?
それは、純粋な客観的合理性ではなく、ある制限を設け、その範囲の中で勝敗の決まる競争原理、つまり “ゲーム性” を楽しむのが目的だからではないだろうか。
例えば、100mを早く移動したければ、車やバイクを使えば、9秒台どころの速さではない。しかし、人間が生身の体で9秒台を出すからこそ、そこに価値を見出す。
しかし、その価値とは一体なんだろうか?
勝手に人間が作ったゲームの中で、勝手に人間が限界に挑戦して、勝手に喜んでいる。それは本来的に尊ぶべき価値なのであろうか?
どうも私にはそうは思えない。
そして、2023年に起こる知的革命により「人間にしか創出できない価値」というものを根本から問い直す必要性に我々は迫られている。
話を戻そう。
超一流はAIに仕事を本当に奪われないのだろうか?
私の見解を述べよう、それは
「究極的に最終的な局面において、AIは人間の全ての仕事を奪う」
というものだ。
AIの学習は、我々のような感覚理解は伴っておらず、代わりに、統計学的確率論において最も確率の収束する、つまり、求める結果を得られる最も確率の高い回答を出力することを志向している。
つまり、当てずっぽうの精度を極限まで高めている、と言って良いかもしれない。
そして将棋の例のように、AIがデータ取集可能な範囲においては、すでにその当てずっぽうの精度は超一流のそれ超えている。
将棋やスポーツなどといった分野は、全体的合理性の追求ではなく、その制限された範囲におけるゲーム性を楽しむのが目的なので、業界を支えるファンがプレイヤーが人間であることを求める限り、彼らの仕事は保証されていると言って良い。
しかし、より全体的で純粋な競争世界における殴り合いに目を向けた場合に、超一流の仕事は本当に奪われないのだろうか?
・・・
収集したデータを統計学的に処理してAIがやっていること、それは ”パターン”を学習しているのである。
パターンとは因果関係の総体である。
そして、ここで1つの問いが浮かびがる。
「パターン性のない事象というのは、この世界に果たして存在するのだろうか?」
という問いだ。
近代科学合理主義的な機械論的世界観の立場においては、”観察可能な客体” においては、そこに全てパターン性を見出すことができると捉える。そして、現代の我々の生活を成り立たせているテクノロジーはこの観念において成立している。AIもその例外ではない。
仮に、我々の実存という名の意味論的聖域を、AIが高度化するにつれてそのパターン化という因果律によって侵食すると見た時に、4つの段階が検討される。
・第一段階
我々の最もすがり易い「目に見える客観的なコンテンツ価値」の領域を奪う。例えば、プレゼン資料、文章、絵から音楽に至るまで、人間よりもクォリティーの高い成果物を人間よりも比較にならない早さで出力する。AIより出来栄えの悪い成果物を出す人間の客観的な価値は、その領域においてはもう見出せず、この段階は、すでに到来している。
・第二段階
次に「目に見えない客観的なコンテクスト」の領域を奪う。例えば、先日、将棋の藤井プロの封手に競売で1500万円の価格がついたそうだ。
これは、将棋史に残る次の一手を藤井プロ自らが決めたことを証明する歴史的価値があると判断されたからだろう、とのことだ。
しかし、相場とは複数の他者による評価の総体であり、客観的なものである以上は直接的ではないにしろ、間接的には観察対象となりうるので、データ収集が可能であり、パターン化することができる。
そのパターンに基づいたAIのマーケティング戦略によりコンテクストを生産し、相場を操作する、ということは、おそらく可能だろう。
この段階は、例えば株式市場など代表として、デジタルなマーケティング領域をメインに2023年度以降に加速してゆくだろう。
・第三段階
次に「目に見える主観的なコンテンツ」の領域を奪う。
第二段階まの完全な侵攻の気配を感じとった時点で、人間は客観的な、つまり他者と共有しうるような対象に人生の意味を見出すことを断念せざる得なくなる。
そこで、内的な価値へとその尺度を求めることになるが、その初期の段階としては、目に見える成果物が対象となることが予想される。
例えば「これが好き、これが良い。あれが嫌い、あれが悪い」といった、いわゆる(見える)成果物そのものを対象として併発する個人的な評価であるが、「あなたの ”良い” とか “悪い” とかいうのには、法則性はないのか?」と問うた時に、いかがだろうか。
少なくとも、私は自分の過去のそのような記憶を振り返ってみて、およそその判断に法則性がなかった、とは到底言えそうもなく、つまりそれは因果律の範囲内であり、最終的に、AIによって確率を収束させられる射程範囲内である。
AIの用意した答えをなぞる事になると知って行うその行為に、実存を見出すことは難しい。
・第四段階
最後に「目に見えない主観的なコンテクスト」の領域を奪う。
コンテクストとは「情報の連なり」であるから「意思決定の内的なプロセス」に関わるものと理解してもらって良いと思う。
例えば、バガヴァッド・ギーターに「それが行為か非行為かを見定めるのは、賢者でも難しい」といった文言があるが、これに近い。
「意思決定の内的なプロセス」が観察対象として実用可能な形で客観的にデータ収集される日は、まだ遠いと思われる。従って、この領域を実存の拠り所とすることは、当分の間アンパイと言えるだろう。
しかし「意思決定の内的なプロセス」をデータ収集することは、不可能なのかというとそうでもない。例えば、ナノマシンを体内に注入し、内的な意思決定に伴う生体反応データから、その決定プロセスのパターン性が取得できるようになるかもしれない。そうなれば、その実存的聖域も因果律によって解体され、AIの射程範囲に収まってしまう。
以上の四段階をもってして、究極的、最終的に、この世界の観察者たる我々の実存的な拠り所は全てAIによって侵され、その意味を失うのである。
では、我々が拠り所にすべき、客体化され因果律に解体される恐れのない聖域はどこなのか?
それは「私が私を観察する時の私」しか残されていないのではないか。
この領域こそが唯一絶対非干渉の領域であり、人間はそこに辿り着くまでに、AIにその実存的な意味の拠り所を徐々に侵食され、侵食が進むたびに、新たな生きる意味を与えてくれるような止まり木を求めて彷徨い続ける。
そして、究極的、最終的に、
その部分の無い点かのような、
全体であり部分であるような、
そのような領域のみが絶対的に信頼に足ることを知り、絶望し、その時に初めて希望についての視野が開けるのではないだろうか。
しかし、人類みなそこに意識を向け、それ以外に希望を失い瞑想する様は、肌色の地平に無数に見える黒い毛根が、先端のニョキを上空へとなびかせているかのような、シュールな風景を私に思い浮かばせた。
・・・
AIが人々の生き方を計画的に管理するディストピア世界観の物語はお馴染みであるが、仮にそのAIが究極的な段階まで学習が進行し 「客観的/統計的にその人が最も高い確率で幸せになれる選択」を指示できる状態になったとしよう。
確率が収束した世界における、その答えをなぞるだけの非実存的な在り様において、実存を、その自由意志を、つまり主体性を求めるということは、不確実性を求めるということを同時に意味する。
つまり我々は、AIという物質的な方法で確率的に収束させた客観的/統計的に幸せになれる選択肢を放棄し、その追求した果てに、逆説的に、主体的にその不確実性を拡大させる行為を選択することを、実存の回復にあたって、求められるのではないだろうか。
清浄ではない目的で秘匿すると腐る
刑務所、警察、学校、政治、宗教組織、報道機関等々、淀んで見通しの良くない組織はいくらでも思いつくが、これら組織の流動性が向上し、その清浄さが保たれることは皆が願うところではある。
ではあるのだが、なぜそのように淀んでくるのかというと、それは秘匿という概念に関係があるように感じられる。
秘匿の動機が純質な精神性に基づいている場合には、精神的な意味において、それが何か問題を引き起こすようなことにはならない。
一方で、清浄ではない目的で秘匿されたとき、そこは淀んで腐りはじめる。
物質的な意味でその場所が絶対性を持つのであれば、当然、物質的な意味でそこに秘匿の必要が生じるわけであるが、物質的であることは相対性であることをを前提とするので、ここに自己矛盾による内的葛藤が生まれる。
このように考えるとき、生物学的な文脈における腐敗と、精神的な文脈における葛藤とは、アナロジーの関係にある。
固執すると問題となるが、否定すると立ち行かなくなる
・競争力を維持し、パフォーマンスとそれに見合った報酬の得られるような流動性を重視するアメリカ的価値観か
・パフォーマンスが低くとも雇用の維持される安定感を重視する日本の価値観か
といった、二項対立的にコメンテーターの夏野剛氏が語っていたが、流動的に安定させる、動きがあるからこそ清浄であり、そこに動的安定感がある、というふうに考える方が私にはしっくり感じられる。
これは、完全に個人的趣向に過ぎないのだが、私は夏野氏のことがどうも好きになれない。
彼の話を公の場で聴衆として聴く機会があったのだが、本題の前の前座とはいえ、趣味のワイン論の話を延々と続けている姿を見て、「この人は一体何なのだろう?」と正直なところ思ってしまった。
しかし、あくまで個人的に好きになれないと言うだけであって、彼の発信する情報それ自体に価値がない、であるとか、彼のアウトプットに関する何かについて、否定的なのではないことを理解されたい。しかしながら、彼の話を聞いて今まで何かしら人生に役立つ思えることがあったかというと、特に無かったというのが私においての事実である。
とはいえ、政財界や芸能界や、そう言う物質的な領域の人物の発言においても、その知性の範囲において目覚めているような態度から出る真理に迫るような発言はあるし、合理的な思考というのは、非合理的、逆説的になりうる精神世界の探究においては、その必要条件として前提となるものであり、固執すると問題となるが、否定すると立ち行かなくなる類のものである。
なので、一概に否定せずに、その発言の裏の背景を見極めつつ取捨選択して、学ぶべきと思う部分を専門外の低次の立場として謙虚に取り入れるのが良いのではないか、と思う次第である。
(私は、精神世界の探求において知性、理知的な論理的思考力はあった方がやるべきことが明瞭になって便利ではあるが、それ以上の価値はないという意見には賛成の立場だ。特にこのバカボンの逸話の妙な説得感にはいくらかの真実味を感じる)