因果律への懐疑と理知と情感知の相補性

A ボールを蹴った

B ボールが飛んでいった

 

「ボールを蹴ったこと」と「ボールが飛んでいったこと」の間には、常識的には因果関係があり「AならばB」である。

 

しかし、「なぜAならばBであるのか?」という”客観的”な根拠は実際にはどこにもなく、これを数学的に考えれば、その論理接続が肯定される根拠を遡ると、自明とされる公理系に辿り着く。

 

つまりそれは「公理で(最初に)そう決めたから」という極めて主観的なものであり、公理系の決定は理知ではなく感覚、感情という情感知によって決定される。

 

この意味で、理知は情感の奴隷と言えるが、だからこそ、情感に偏りが過ぎてその公理系の工場性に問題が生じた時には、理知により情感の統制を効かせること、理知と情感知の相補性が必要なのだろうと思われる。