多元的原子論が小乗仏教の世界観である必要性とは?


大乗仏教を基本とするチベット密教の伝道者による著書『タントラの道』を読んでいる。タントラとは金剛の意味だそうで、

小乗仏教(出家的で利己的)

大乗仏教(在家的で利他的)

③金剛仏教(実践的)

仏教徒の修行はこの順序で進めるべきと著者は語る。これをスポーツで喩えるなら、小乗仏教は自己練習で、大乗仏教は試合、金剛仏教が撮影禁止の非公開練習といった感じだろうか。

 

その中に気になる記載を見つけた。以下に引用する。

 

「小乗派の現実に対するアプローチでは、生まれたものは変化し死ななければならないという無常の理を大きなる神秘とみなす。しかし私たちに見えるのは、無常そのものではなく、形の中にそれが現れたものに過ぎない。そこで小乗派は空間に存在するさまざまな原子、時間に存在するそれぞれの瞬間によって宇宙を描き出す。つまりそれは原子論的多元論だ。

(中略)

私たちは永久論、虚無論、原子多元論の三つの要素がさまざまに組み合わされて、世界のほとんどすべての宗教の中に現れているのを見る。」

 

というものだ。

 

ちなみに、ここの記載の「永久論」とは、現象は本質(絶対性)をその内に含んでいるというもので、ここでいう本質とはいわゆるアートマン、魂、と思って構わない。

 

虚無論は、観察不可能性に対して神秘(絶対性)のラベルを貼り、それを世界の説明原理の根拠に据えるもので、老子的な「道の道とすべきは常の道にあらず」の道的な神秘的対象に絶対性を置く論だ。

 

以上を踏まえて、気になったのが

 

上座部仏教が<無常>を公理に据える時に、その世界観が原子論的多元論になるのはなぜか?」

 

「そのような説明原理が必要になる理由は?」

「そもそも、なんでそれがまた “原子” なのか?」

 

という上記の問いに関わる点なのだが、この答えへの鍵となる記載が『仏教の思想 2 存在の分析』にあったのでこれも引用する

 

「それでは、自然界は、造物主によらずに、何によって形成されたのであろうか。『俱舎論』によれば、それは「サットヴァ・カルマン」によって生まれるのだという。「サットヴァ」とは、ふつう「有情」とか「衆生」とか訳されている語で、この世に生命をもって存在するもの、あらゆる生きものを意味する。「カルマン」はふつう「業」と訳されるが、行為・動作の意味である。したがって「サットヴァ・カルマン」とは生命あるものの行為、生命体の生活行動、ということになる。

 

常識的な順序からいえば、当然、まず自然界が先に存在していて、次に、そこに生命をもつものが発生して、その行為・動作が起こるはずのものである。にもかかわらず、ここでは、逆に生命あるものの行為・動作によって自然界が生み出されるという。とすると、自然界の成立に先立って生命あるものが存在していると考えなければならないことになるが、どうしてそのようなことが可能であるか。この問題は、一個でなく多数の自然界を考えることによって説明される。のちに述べるように、果てのないほど広大な宇宙空間の中では、この場所に「この、一つの」自然界がまだ成立していないときにも、他の場所には「他の、多くの」自然界が現に存在していると考えられる。そこで、現に他の自然界に生存している「有情(サットヴァ)」であってやがてこの自然界が成立したらそこに生まれてくるであろうものがあるはずである。そのものの「業(カルマン)」の力によって、この自然界は成立せしめられるというのである。

 

サットヴァ・カルマンによって自然界が創り出される。(中略)宇宙を生成するエネルギーと、一個体が、一人間が、生き行為し動作する力とは、根源的に同一であるとする考え方であると言ってもよいかもしれない。」

 

これらの記述から得られた私の理解によれば、これは物理学的にいえば、「物事が減少する前の」「対称性が破れる前の」「観察される前の」、相反する物事が同時に存在している状態をどのように説明づけるか、という問題意識によるもので、なぜこのような問題意識が生じるかといえば、ニュートン力学的なミドルスケールの理論だと説明できないからではなかろうか、というものである。

 

そこで物事が生じる、全くの初めの時点、対称性が破れる時点のスケール、微細なスケール、ミクロスケールにおける説明原理ということで、原子論というわけだ。

 

物理学的にはこの同時存在性の説明原理として数学的な処理を目的意図した相反する状態が確率的に同時存在しているという概念を採用したが、仏教は物理学が採用しなかった、この世界とは異なる世界に相反する状態が同時存在していて、現象する瞬間に、こちらの世界にそれが現象するという並行世界論を採用したのだと見ることができる。

 

前者は左脳的な理知と、後者は右脳的な情感知と親和性が高い。

 

つまり多元的原子論とは、ミクロスケールの対称性が破れる前の、つまり非現象状態における相反する物事の状態の同時存在性への説明原理として、並行世界的観念を据えたものと理解される。

 

このような理解において、永久論、虚無論、多元的原子論の3つの観念の組み合わせにより、あらゆる ”ものに対する” 宗教的観念はモデル化できる、ということが著者の言わんとしたことであろうと、というのが私の理解である。

 

■3つの論のまとめ

・永久論・・・現象は本質(絶対性)をその内に含む論(アートマン、神、魂)
・虚無論・・・観察不可能性に対して神秘(絶対性)のラベルを貼り、それを世界の説明原理の根拠に据える論(老子的な道)
・多元的原子論・・・ミクロスケールの対称性が破れる前の、つまり非現象状態における相反する物事の状態の同時存在性への説明原理として、並行世界的観念を据える論