親ガチャ信仰が孕む逆説的矛盾

頭の良し悪しだが、遺伝的要素の影響は間違いなくある。あるのだが、少なくとも実生活レベル(ロジカルタイプの下層)では、後天的学習、つまり獲得形質によるものの影響の方が大きく

 

その獲得形質の種類は「効果的(良質な)思考パターンの入力とそれら同士の構築」であり、昨今の情報の溢れた状況状況においてその入手は容易だ

 

遺伝的要因による能力限界は、上限・下限値(バイアス)に至るまで実際にパラメーターを変更しなければ分からないような潜在的な値であり、

 

我々はこれを実生活で行うという人生ゲームに参加させられているわけだ。

成功哲学に「諦めなければ、必ず成功する」という箴言があるが、これを正確に捉えると

 

"諦めない" その先に来るのが

"成功" が先か?

"限界" が先か?

ということだ。

 

成功は社会的な競走原理上で相対的に定まり、かつ、そのイスの数は相対的に少ないので、我々の大半は "勝ち馬の馬券" ならぬ "負け人の人券" を握らされている。

 

そして "社会的な競走原理" は主に実生活レベル、論理階型(ロジカルタイプ)の下位構造に依るところが大きいので、遺伝的要因よりも獲得形質さらに言えば、器質的な能力格差というよりも、ノウハウへの鋭敏性や情報格差から生じる能力格差、つまり、 "思考習慣格差" とでも呼ぼうか、これに依るのである。

 

結論として、俗社会的成功においては遺伝的要因よりも、すなわち後天的学習によるところが大きく、その中でも有効性を持つ獲得形質は "器" 質的能力 よりも言ってみれば "気" 質的能力 すなわち "思考習慣(考え方のパターン)" に依るところが大きい。

 

ということだ。(とはいえ、私は『思考は現実化する』は読んでいない)

 

 

なので、親ガチャ親ガチャなどと自分の不幸をタネに騒いでいる人間が多いが、彼らの何がおバカなのかというと、そういう人間が最も興味を抱く俗社会的成功においてこそそれを左右するのは、遺伝でも、経済でもなくその"思考習慣"であり、親ガチャ親ガチャと騒ぐ人間のそれはまさに負け犬のそれそのものなのだ。

 

 

この意味で、「格差は遺伝する」などと言われ、この "遺伝" の語句が、あたかも生物学的な器質の継承こそが、100歩譲って扶養者の経済的優位性が、俗社会的成功を左右してるように思わされるが

 

 

実際は、その "非成功者的な考え方のパターンを子が親から20年近くかけて無意識レベルで刷り込まれるだけのことに過ぎない。

 

つまり、親ガチャ信奉者にとっての親ガチャ理論とは、非成功者という概念にべったりくっついた自己イメージを肯定するためキャッチーで分かりやすく有用な手段なのである。

 

この理解が得られたのであれば、それは同時に、「人はいつでも変わることができる」の意味も理解されなければならない。

 

要するに "人生が変わる" とは、思考習慣という物事の考える "考え方のパターン" が変化するということだからだ。

 

「この歳でもう人生なんて変わらないよ」とは「私は自分の思考パターンを変更する気がありません」と宣言してるも同然で、おバカは己がおバカだと気づいた時に初めて学習するのであるから、その意味でこのおバカは救いようがない

 

親ガチャ信仰の本質とは「遺伝した思考習慣への固執」なのだ。

 

したがって、人が "人生を変える" すなわち "思考パターンの変容" さらに言えば "おバカがおバカでなくなる" ためには、

 

「自分の思考パターンがおバカであることの自己理解」

「その変容プロセスの前提に少しでも自分のおバカ性に目を向けようとする"自発性" の存在があること」

 

これらが自己変容にあたっての決定的に重要なファクターなのである。


(仮にお望みの社会的成功を得たとして
、その後も彼らの幸福か続くのかということは、少し本を読めばわかることなのだが、残念ながら、彼らは輝く見かけの背後にある影を見るということはしないのであろう)